【塾の毎日/国語って、意外に大切なんですね。】

今年はコロナの影響もあり、学校や入試にも色々と影響が出ています。札幌市内では夏休み明けの来週には今年最初の定期テストが。初めてのテストとなる中学1年生にとっては、例年よりも随分長めの範囲での試験、それでもみんなせっかくの試験なので8割取れるようにこの夏休みも利用して勉強するんだ、と積極的に前向きに頑張っています。

また、9月からは大学や専門学校などのAO入試や推薦入試がスタート。自己PRや小論文、課題レポートの作成などやはりこちらも普段の学校の授業ではなかなか取り組む時間がないことも多く、悪戦苦闘する生徒達も多いのですが、次の目標とするステップに向けて日々練習中です。今日はそんな取り組みの中でのお話。

最近大学の関係者の方に、生徒達の進路選択に向けて知りたい部分がありやり取りさせて頂く中で、『国語』の力不足という点を耳にすることが増えてきました。問題文や質問の意図をくみ取る読解力だけでなく、自分の意見や考えを人に伝える際の表現力など全体的に国語力が不足していると感じることが多いという話。その点に関しては、実際私もそうだろうな~と感じています。

国語の授業って、生徒達にとっては、何を目的に、どんな力を伸ばすために勉強しているのか分からないって質問されることが最も多い教科です。だから、その質問にはひとりひとりの中で、なるほど、自分にとってはこの部分の力を伸ばすために活かせるんだ、ってところが見つかるように、深く掘り下げて考えることにしています。

私は昔から本を読むのが好きでした。知識を取り入れるための本も、人がどうしてそう考えるのかそのプロセスをまとめた本も、人の心の感情の移り変わりを感じる小説も・・・色々なジャンルの本を読み漁っていました。今も読書は好きです。今はネットなどでも、パッと目にした短い言葉だけ、パッと目にした切り取られたワンシーンの中での一言、ひとつの行動だけですべてを理解したかのように感じてしまう傾向が見受けられますが、実際のところ、読書という習慣、読書に限らず何かひとつの言葉やひとつの考え、ひとつの行動を目にしても、そこだけで判断することはなく、何がそういう行動を生み出したのだろう、どうしてそういう言葉を発したのだろう・・・のように深く考えたり、調べたり、話を聞いてみたり・・・という行動のきっかけはそういう読書で自分がいつも読んだものに対してしている行動なんだな、と感じています。

先日小論文に一緒に取り組んでいた生徒から『国語って意外に大切なんですね』って一言。彼が私の話からそう思ったのは、人には色々な話し方、話の展開、言葉の使い方をする人がいる。同じ言葉を使って聞いても答えに求めるものが違ったり、違う言葉を使って聞いてきても答えに求めているものが同じだったり。先生はよく国語の文を読む時は探偵になった気分で、と言っていたけれど確かにいつもこの人はどうしてこういう書き出しにしたんだろう、この人はどうしてこういう順序にしたんだろう、この人はどうして・・・って発想を持って文を読んでいくと分かりやすかったし、国語力もついたなと思っていたけれど、今こうやって書こうとするとじゃあ自分はどう書きたいか、自分はどう書いたら今の意見をまとめやすいかってそういう読んだ経験が生きてくるし、さらに普段から色々なジャンルのことに興味を持って考えておくと、この小論文っていつでもあまり肩ひじ張らずに書けるようになりますねって。

ということで、最近は探偵になった気持ちで、『どうして』という質問を繰り返しつつ読書という習慣を持っている生徒達が多いEduの塾。読書した方がいい、ではなくてどうして私が読書をするのか。『どうして』を自ら引き出せるようにこれから引き続き私も考え方を、引き出し方を広げていきたいと思います。